ショートショート『私の姿が見える人』
私はバスタブ。生まれて二十年になるの。
このワンルーム賃貸アパートは駅から徒歩二十五分という微妙さのおかげで家賃がちょっと安い。けど、バストイレ別の優良物件。それにこれまで一度も『事故』は起きていない。
最近新しい男の子が暮らし始めたの。
今回の彼、すっごく謎めいていて、私の側に来ては話しかけてくるのよ。
私、バスタブよ? 言ってしまえば『物』なの。唯一、お湯が沸いた時は『お風呂が沸きました』って言うけど、それ以外の言葉は人には聞こえない。だけど、彼は今日も私に話しかけてきた。けだるそうにジーンズのポケットに手を突っ込んだままで。
「ねえ、君。ずっとそうしていて、寂しくないわけ?」
幽霊でも見えるのかしら、と思ったこともあったけど、彼は明らかに私を見て喋りかけている。私の姿は、バスタブにしか見えないはずよ? バスタブ以外に見えるというなら、具体的に説明してほしいくらいだわ……。
私が困惑していると、彼は小さくため息をついたと思えば、ニッ、と嬉しそうに笑った。えっ、今、私に、笑いかけているの?
「そうだよ。他に誰がいるっての。あのねえ……俺が君のこと見えてないと思ってた?」
あ、当たり前じゃない! いや、違う! 見えるに決まってるわ! だって私はバスタブとしてここに存在するのだから!
「ふはっ……ははは……おもしろいこと言うねえ」
お、お、おもしろいのはあなたの方でしょう?! バスタブに話しかける成人男性なんて、この世であなたくらいよ! バスタブと会話を成立させるなんて、どういうことなのよ!
それにしても、この人の声、どこかで聞いたことあると思ったら。先月まで住んでいた女の子の大好きな、ソシャゲのキャラの声と似ているじゃないの。いつもスマホを持ってお風呂に入ってたから、知ってるわ。えっと、確か、『ゆーきゃん』? だったかしら。初めは軽薄そうなのに、突然、真剣な声になるあのギャップ。ヤバかったわよ。浴室に甘く響くあの低い声は、忘れないわ。そりゃ、世の女の子がトリコになるわね、っていう、まさに子宮に響く声ってやつだったわ。私、バスタブだから、給湯口に響く声ってところかしら。……うん、そんなことはさておき。
どうして、私と会話できるのよ、あなた!
「バスタブだって言うけど、俺には可愛い女の子にしか見えないんだよなァ……」
かかかか、可愛い女の子、ですって?! どういうことよ!
「どうもこうも……ちょっと待ってて」
そう言って彼は出て行った。十分後、戻ってきた彼の手には、スケッチブック。
「こう見えてるんですよ、俺には」
はあああああっ?! なによ、それ! わ、私は生まれて二十年なのよ! 人間でいうと立派な大人よ! なのに、それ、どう見ても幼女じゃない!
スケッチブックに描かれていたのは、五歳くらいの女の子。ふっくらとしたほっぺと、ちょっとツリ目がちなまん丸お目目。金髪のストレートロングヘア。頭のてっぺんには真っ赤なリボンが乗っている。どこかいいところのお嬢様みたいな、ドレスみたいにひらひらフワフワしたワンピースを着ている。これが、私だって言うの?!
「改めてよろしくね、『そーちゃん』」
笑いをかみ殺したような声が降ってきた。そーちゃん? それって私のこと? 私はバスタブよ!
「だから『そーちゃん』なんだけど?」
何を……ハッ?! ま、まさか、浴槽の、そーちゃん……?
「ピンポンピンポーン! だいせーかい!! おめでとう!!!」
もー! なんなのよーッ!!
……これは、この優良物件のはじめての『事故』だ。私の心は大渋滞だった。バスタブなのに。
結局のところ、どうして私の人としての姿が見えているのか、それがなぜ幼女なのか、彼が何者なのかはわからないままだ。でも。悪い気分ではないのよね。
「ははっ、それはよかった!」
もうっ、許可なく私の心を読まないで頂戴!
浴室に、楽し気な笑い声が響いた。